日本橋から人形町、馬喰町あたり一帯を健一の業界では衣料問屋街と言っている。そしてその業界のことを「糸偏」と彼らは呼ぶ。
「糸偏」とはアパレル会社や衣料問屋、そしてそれらの会社に出入りする業者である生地屋、糸屋、またデザインを売る企画会社、そしてボタンから裏地、肩パッド、ブランドを刺繍したネームといわれるものや、そのブランドのペーパータグなどをあつかう付属屋といわれる会社を指し、それらがひしめき合って衣料問屋街を形成していた。
健一の勤める会社もその人形町の裏通りにあった。業界では中堅アパレルとして名前が通っている。一般の人でも名前を聞けば知っている人もある程度はいるだろうと思われるぐらいの知名度の会社だ。
大学を卒業した健一は別にファッションにそれほど興味があった訳ではないが、なんとなくアパレルという横文字がお洒落に思えて軽い気持ちで面接を受けそのまま入社してしまった。まだ好景気でそんなたわいない理由が当たり前に通用した時代でもあった。
「君やあなたのセンスがこれからのファッション業界をリードし、高感度でビビッドな想像力に期待します」
こんなに陳腐で内容が全く無く空しい単語の羅列を、入社式で社長が話しているという、ペラペラな薄い金メッキ一枚で人々が生きていた時代であり業界であった。
その時代のアパレルなんて、金メッキの下はファッションとは全く無縁の泥臭い古い体質で、煙草の紫煙で燻されたショールームの中、アルコール焼けした親父達がちょっとでも売上を上げるため今売れている商品をサンプルと称して買い、それのデザインと色をちょっと変えたコピー商品を作り堂々と営業して歩いた。デザイナーも名前だけで、上から、売れるものを作れ!、と毎日同じセリフを百万弁聞かされながらオリジナリティとは無縁なただのパタンナーとしてこき使われる、そんな世界である。
たいしてこの業界に期待もしていなかった健一であるが、1年も経ってみると内情がすっかり見えてしまい、売れればすべてが許され、売れなければどんなに素晴らしいデザインでも、品質でも、その製品自体と手がけた人間は認められはしないということが解ってきた。
もちろん今から思えばそれが、バブル最後の花火を打ち上げていた時代で、そこから業界自体あっという間に転落することになるのだが、創造も文化もコピーライターの作り上げる世界だけに存在し、世間はこの時まだ、その蜃気楼のごとく幻の正体を理解してはいなかったのである。
そして、バブルは崩壊しその波はこの衣料問屋街にも押し寄せてきた。
さすがにメンズ事業部で4年目を迎えた健一の仕事もその業界の仕組みに慣れてはきたものの、急激に落ち込んだ売上をとりもどすのに無理なサイクルで物を作らなければならずストレスは日に日に増していった。確かに幻は消えたのではあるが、その幻が消えたことをまだ会社の上層部は理解しようとはせず、あるものとして強引に考えることで責任を末端の社員に押し付けてきた。つまり、世の中の動向に対応する手が全く打てず、悪いのは社員の営業努力や企画だという責任転嫁である。
当然、同僚の中にはその無理をさらに押し進めようとするあまり、姑息な手を使ったり、取引業者に無理難題をふっかけては困らせる奴らもでてきた。
「重さん、何度言ったらわかるんだよ。お客に迷惑かかって謝りにいくのは俺だぜ。あんた、その意味わかってる?えっ、それじゃあ、なんで数があわねえんだよ。できないならもうオーダーださねえよ」
レディス事業部の山口がまた吠えている。健一と同期入社の男であるから、年はまだ27歳になったばかりだ。とにかく口が立つので営業成績はいつも良く上からの受けも良いのだが、かなりの自信家に加え、傲慢な態度で後輩や取引業者に接するので有名だった。彼の下でアシスタントとして働いていた新入社員はすでに一人が辞め、一人が転部願いを出していた。
「なあ健一、また山口の馬鹿が重さんいじめてるぜ。あれは端で聞いていてもいやなもんだ。煙草でも吸いに行こうぜ」
健一の斜め向かいに座っている瀬野が喫煙室に向かって歩き出したのを健一も追う。横目でレディス事業部を見ると、重さんが小さくなって何度も頭を下げていた。
瀬野は健一と違い中途採用で2年前に同じメンズ事業部に入ってきたのだが、人当たりがよく飄々とした人柄が健一にとって親しみやすく、やはり年齢がいっしょで、それもあり二人とも馬が合った。物事をまっすぐに考えすぎるきらいのある健一を瀬野のユーモアあふれる態度が彼の心を和ませるのである。
喫煙室にも山口が重さんを叱責する声が響いてくる。
「重さんもよく切れないよな。瀬野、俺だったらもうあいつ2、3発はとっくに張り倒してるぜ。俺が我慢できなくなってるよ」
「おいおい、健一が山口張り倒したってあいつの単純瞬間沸騰湯沸し機を壊すことはできないって。それよりも今晩、重さん誘って飲みにでも行こうや、おっさんもそのほうが喜ぶってな」
出入り業者である付属屋の人間として重さんこと重田さんは、ほとんど毎日のように健一の会社に顔をだす。そしてメンズ、レディス、ヤングカジュアルと各事業部のそれぞれの担当者を一人づつ回って行く。つまりは御用聞きという訳だ。
こんなところにもこの業界の古い体質が見られるのであるが、これがサービスとなってその会社の付属のオーダーを一手に引き受けることができるようになる。買ってやる、買っていただくという図式が成立しているため強者、弱者的な関係で商売がおこなわれる。たしかに毎日来てくれるのは便利だし仕様書一枚、重さんに渡して集計させ、すべての使う付属のオーダーの仕事を任せてしまうのである。ようは自分がする仕事を重さんにやらせることで他の仕事ができるようになるという言い訳をして、楽しようというのだ。
しかし、それが山口のような横柄な態度を助長する原因にもなっている。現在メールを使ってどこでも連絡できる世の中にあってもこんな体質はまだ変わってはいない。
当時でも健一と瀬野はできるだけそういうことを止めたいと思っていた。なぜなら、自分が集計して間違えたのなら責任は自分にあるが、人に集計を任せて間違いが起こったときに責任を押し付けるようなことをしたくなかったのだ。たとえ、重さんに集計してもらっても必ずそれを自分で確認してからオーダーしようと二人は話し合った。そして、重さんを怒鳴ることはぜったいにするなと誓い合った。
その頃50才を超えたばかりの重さんは162センチぐらいの小柄なおじさんだった。くたびれたスーツを来て、事業部と事業部をせわしなく歩き回る。人懐っこい笑顔に銀縁のめがねがちょこんとのっていた。
「重さん、そこ終わったらこっち来てよ」
「ああ、毎度、すぐ行きます」
「おーい、そのあとはうちにも寄ってくれ、急ぎがあるんだ」
重さんの顔が見えるとデスクのあちらこちらから声が飛ぶ。毎日毎日、うだるような熱さの中も、暴風雨で電車すら止まる日も、そして雪で足元を取られるので外に出たくないと思うような時ですら、重さんは変わらぬ笑顔で会社にやってきていた。
「飯田さん、今日は何かすることあります?遠慮無く言ってくださいよ。いつも瀬野さんと飯田さんはロスまで含んだ数量計算してオーダーしてくれるけどね、そんなこと私がするからさあ、仕様書そのまま渡してくれればいいから......」
「ああ、重さん毎度。もう集計終わってるんだよ。はい、これオーダー書。来月の10日までにあげてくれます?」
健一がそう言うとすかさず瀬野が重さんに向かって
「悪いけど俺達の仕事取るなよな、なあ重さん。俺こう見えても計算得意だからさ。それにしちゃあ利益計算がへただってか?ははっ、まぁな、それでも健一より俺のほうがましだぜ」
と笑いながら言い、そして小声で耳打ちした。
「それより、今晩、健一と3人でちょっと飲みにいこうよ。7時に人形町の笹野で待ってるから」
下町の風情がのこる店構えの笹野は、大衆的な気取りの無い居酒屋であるが出すものはかなりのこだわりがあり、めっぽう美味い酒の肴がたくさんある。刺身は天然物にこだわり、キンメなど煮付けや焼き物と魚が豊富に食せた。東京のど真ん中でこれだけのものを出しながら、価格は瀬野や健一の安月給でも飲みに行けるぐらい実はリーズナブルでもある。
カウンターの上に所狭しと大皿料理が並べられている。その前に健一と瀬野は座ってビールを飲んでいた。外は初夏の心地よい風が静かに吹いている気持ちの良い夜である。
しばらくして重さんがせわしない動作で店に入ってきた。健一達を見つけると小走りに近づいてきて、しきりに頭を下げ遅れたことを詫びた。
「ごめんねえ、一度会社に戻って出ようと思ったら、山口さんから電話があってねえ。またお叱りを受けてたものだから。まあ俺がだめなんだけどねえ」
「まあまあ、会社でたら仕事の話はやめましょうや。とりあえず一杯いこうよ、ビールでいい?、すいません、グラスもう一つとビール一本」
瀬野が気を利かせてすぐに注文を通した。そしてビールといっしょに先に注文していたねぎまが運ばれたきた。それは目の覚めるような美しい青で縁取られた皿に葱と鮪と牛蒡、豆腐が醤油、味醂、酒で軽く煮込まれたものが盛られ、その上には浅葱の緑がその皿の青に呼応するごとく一面に散っている。
乾杯を3人でした後、重さんがおもむろにその皿に箸をつけ口に運ぶ。そしてすこしの間を置いて唸った。
「いやあ、こりゃあ美味い。二人とも若いのに酒飲みだねえ。ビールじゃもったいないじゃないの。でもこれで日本酒飲んだらすすんじゃっていけねえや」
そう、ここのねぎまは素朴な味わいながら、吟味された材料が互いにでしゃばらず見事な調和をとり、しみじみとした旨みあふれる一品となっている。葱の甘さと鮪のコク、牛蒡の歯ごたえと、豆腐のほのかな大豆の香りが煮すぎることなく絶妙なタイミングで火が通されることで渾然一体となり、新たな味覚の世界を形成していた。その寸分の狂いなくバランスの取れた味わいについつい箸がでてしまう。健一と瀬野はこの店では、このねぎまを必ず注文することにしていた。
「こういう美味いもの食べるとさ、いつも考えちゃうのよ。死んだカアちゃんにも食べさせたかったってね」
健一と瀬野は顔を見合わせる。重さんが数年前に奥さんを亡くしていることは会社の皆が知っていた。癌だったらしい。まだ40後半の若さであった。奥さんが病院に入院してからわずか1ヶ月という早さで逝ってしまい、重さんのもとには二人の子供だけが残された。中学生の長女は男手で育てることは無理だということになり、親族会議で子供のいない遠い親戚が預かることになった。重さんとしては最後まで一緒に生活することを希望したが、結局小学生の男の子と二人で生活することに同意した。
「いやあ、もうしみったれちゃあいないから、大丈夫だって。ごめんねえ。変な話、しちゃって。もう一度乾杯しようよね。瀬野さん飯田さん気を使ってくれてありがとう、乾杯」
「なにいってんの、俺も健一も重さんと飲みたかっただけだよ。俺はね、重さんを人生の先輩として尊敬しているの。健一は特に競馬の先輩としてらしいけどね」
「えっ、飯田さんが競馬するの?それは初耳だなあ。でも嬉しいねえ、馬が好きって人にはなんか親近感、沸いちゃうんだよねえ」
そう言うと重さんはビールを一気に飲み、冷酒をたのんだ。
「競馬と言っても僕のはG1だけですよ。だいたいお金もそんなにないし、日曜日、暇だから場外で馬券買って家でテレビ見ているぐらいですけど」
健一がそう言うと重さんは嬉しそうに笑って頷く。
「そう、見るのはG1が面白いよね。平場はほんとギャンブルだけど、なんかG1だけは夢みたくなっちゃうよねえ。ところで飯田さんが一番好きな馬って何?」
「僕が好きな馬ですか。そうだなあ。やっぱりオグリかなあ。3年前の有馬見ました?調子が悪いと評判でパドックでもぱっとしなかったのに武を背に神懸り的に勝ったのを見て興奮しましてね。それ以来オグリキャップが好きなんですよ、それが引退レースだったのにね」
瀬野はあまり競馬に詳しくないので興味なさそうにビールを飲んでいた。
重さんは冷酒のグラスを持ちながらねぎまに箸をのばす。
「そう、オグリか。オグリも凄いけど、今からちょうど10年前ぐらいかな、なんか凄い馬がいたんだね。俺がね、一番好きな馬ってのがミスターシービーって三冠馬。三冠全部最後方からの競馬。皐月、ダービーと勝ってニ冠。吉永が最後の菊花賞までドン尻でスタートしてさあ。これ取りゃ三冠っていうのに、またもやどん尻最後方でしょ。こりゃ無理だって思ったわね。それが3角からの有名な淀の下り、普通ここはゆっくり行かなきゃいけないのにそこで一気に上がってきて4角先頭よ。もうそん時は思わず声が出るわけ。いけ、吉永、シービーそのままって。水道橋の場外のモニターでシービーが2着ビンゴカンタを押さえてゴールに入った瞬間、なんか胸熱くなってねえ。涙でちゃって。とてもいい思いさせてもらったって感じなんだね。いまでも忘れられないよ。ああ、もちろん取ったよ馬券も」
一気に重さんはまくし立てるようにしゃべり、今度は感慨深げにグラスを見つめ目を細めた。
「なんかいつも最後方なのに、直線ラストで勝つってのが、かっこよくてね。俺もさ、最後方からいつかは先頭に立ちたいなんてね、思ったりしたわけよ」
そして重さんは黙ってまた空のグラスを見つめている。
健一は重さんのグラスに冷酒を注ぎ瀬野に目で何かしゃべれと合図を送る。瀬野はすぐに理解して、おどけてたわいない話題を重さんにふり、重さんもすぐに我に返った。
結局、それから重さんは冷酒のビンを何本も倒し、最後はべろべろに酔っ払ってしまった。健一と瀬野が重さんの両脇から肩に腕を回して、夜の風にあたりながら人形町の地下鉄の駅まで送っていった。途中重さんは気持ちよさそうに二人の肩に身体を預け何度も同じことをつぶやいていた。
「競馬はいいよねえ。ダービーだって有馬だって毎年毎年あるんだもの。今年の次は来年、来年の次は再来年だ。ずっと続くんだよね。ずっとね。ずっと....」
それからしばらくして、重さんから競馬に行こうと健一に誘いがあった。競馬と言っても場外である。休みの日に会社関係の人間と会うのはあまり気が進まなかったが、重さんが何度も誘ってくるのでつい断りきれずに健一は承諾した。
晴れた日曜日の朝、浅草の地下鉄の改札で待ち合わせた。この日はダービーがおこなわれることになっている。駅の売店のスタンドにはスポーツ新聞の色とりどりの見出しがすべてダービー一色だった。健一もいつも買っているスポーツ新聞一紙を買い待っていると、改札の向こうからいつもの人懐っこい笑顔をした重さんがやはりスポーツ新聞を片手に歩いてくる。
「すまんね、待たしちゃって。さあ、行こう。飯田さんは決まった?今日のダービー、本命何?俺はねえ、ずっと前から決まってんのよ。まあ、あとで話すけどね」
仲見世通りを抜け、浅草六区の通りにでる。その通りをまっすぐにフランス座、浅草東宝、ロック座を過ぎたかどで右に曲がったところに場外馬券売り場はあった。もうその当時は場末の鉄火場というような陰惨な雰囲気はなくウインズなんていう名前でこぎれいな建物が建っていた。
「重さん、ちょっとお茶して行きましょう。僕はまだ検討もしてないし」
「そうか、じゃあコーヒーでも飲んでからにするか」
近くの喫茶店では数人の客皆が馬券の検討をしているようだった。重さんの新聞はよく見ると赤や黄色の蛍光ペンでいくつも書きこみや印がついている。
「さっきの話だけど、今日のダービーはね。柴田だよ。ウイニングチケット。弥生賞の勝ち方見たかい。最後方も最後方、1頭だけぽつんと置かれてさあ。向こう場面じゃあ先頭まで10馬身以上離されて無理だと思ったよ。それが三角から柴田が追い出したら、するする上がってきて直線で一気に加速してぶっちぎり。まいったね。こりゃあ、皐月賞も凄い勝ち方すると思ったんだけど、早仕掛けが失敗して4着。ここはねえ、絶対に来るよ。柴田もダービージョッキーになる最後のチャンスだしね」
「柴田もいい年ですものね。ここは気合入ってますよね。ところで岡部と武の馬もいいですよ。僕は天邪鬼だから、今年も柴田、ダ−ビー取れないんじゃないかって考えちゃうんですよね。僕の軸は武のナリタタイシンにしようかって考えてますけど」
やはり重さんは追い込み馬のウイニングチケットに賭けるらしい。健一は多分そうだろうと思っていただけに一人で納得していた。
ダービーの発走時刻まで平場のいくつかのレースに小銭を賭けて遊んだ。重さんも健一もメインはダービーにあるのでたいした額は張らない。そうこうするうちに発走時刻になった。パドックでも返し馬でもウイニングチケットの気合入りは申し分無い。
モニターの前は動きのとれないほどの人だかりになった。G1ファンファーレが鳴り、各ゲートに馬が入る。そしてゲートが開いた。
ウイニングチケットは直後内側の中団やや後方につける。柴田は馬がかからないように上手い具合に流れに乗せた。岡部のビワハヤヒデは先行している。三角を過ぎた辺りで徐々に進出し四角を回ろうとした時、ウイニングチケットの前がつまり気味になっていた。
「柴田、こじ開けろ!」
おもわず重さんが叫ぶと、その瞬間、前の馬がコーナーを回りながら外にはじけるように大きく振った。するととたんにウイニングチケットの前に道が開かれた。
柴田はそこから一気に鞭を使い追い出しにかかる。岡部のビワと並んだ。柴田がものすごい形相で鞭を使い追い続ける。頭一個分ウイニングチケットが出ているのをビワが抜こうと刺し返す。2頭のマッチレースに外側から武のナリタタイシンが凄い足で飛んできた。
「残れ、そのまま、しばたあ」
歓声の中、渾身の力を込めて柴田の腕がウイニングチケットの首を押し続ける。半馬身ビワハヤヒデに差をつけたところがゴールだった。
騎手生活27年目、ダービー挑戦19度目にして柴田政人はダービージョッキーとなった。
「良かったよお、俺は嬉しいよ、今日の酒は俺の奢り。いいよいいよ、ほんと嬉しいよねえ。柴田が買って、チケットが来て、馬券が取れて、飯田さんと来てほんと良かったよ」
重さんはすっかり上機嫌で、近くの飲み屋に健一を誘った。
そこはカウンターだけの、いかにも場外近くにある飲み屋であった。カウンターからはどこからでもテレビが見ることができるように、頭上にいくつかのモニターが設置されている。つまり、競馬中継が飲みながら見ることのできる場所なのだ。昼からコップ酒をあおりながらという、やはり場末の匂いがあった。
「俺はね、実はこういう所が落ち着くのよ。しょせんカアちゃん亡くした、しがない黄昏おやじだろ。もうカッコつけてもしょうがないの。そうそう、カッコつけてなくてもここのモツ煮こみは他じゃあ食えない美味さなんだね。ぜひ、食べてみてよ」
コップになみなみ注がれた冷や酒で乾杯し、健一は一気に半分ほど飲んで渇きを潤す。それを見ていた重さんが感嘆の声をあげた。
「飯田さん、あんた若いのになかなかだ。その飲みっぷり、いつもここで飲んでるようだよ」
実に嬉しそうに笑い、めがねの奥の細い目がさらに細くなり、消えてしまいそうなぐらいだ。
カウンターにおかれた大き目の皿に、牛のモツの煮こみが山盛りになっている。センマイ、軟骨、シロ、小腸などがこってりとした味噌で長時間に込まれ、独特の香りを放っていた。
健一がそのモツを口に運び奥歯で噛みしめると、じゅっと音がするごとくに凝縮された旨みが口中にあふれ、その次に濃厚な味わいと香りで満たされていく。すかさず冷や酒で口を洗うと、えもいわれぬぞっくとする快感が背中から頭に抜けた。
「これ美味いなあ。ほんと失礼かもしれないけど、まさか、こんなところでって感じです」
「だろっ、俺はねえ、どんなこぎれいな居酒屋のモツ煮よりもここが一番だと思っているのよ。競馬が終わってさあ、ここでこのモツ食って、酒飲んで今日の競馬の反省するわけ。勝ったら、そのレース思い出してニンマリよ」
それから重さんの競馬談義が延々と続いた。冷や酒を何杯もあおり、かなり酔ってきた重さんがおもむろにポケットから小銭入れを出す。
「今日はねえ、なんともいえねえほど気持ちがいいから、とっておきのもの、飯田の健ちゃんだけに見せてあげる。これ、なっ、ないしょだからさ。ねっ」
小銭入れの中身をすべて、カウンタの上にじゃらじゃらと音をたてながら落して出した。すると小銭に混じって赤く光る小石のようなものを重さんが摘み上げた。
それはルビーの指輪だった。
「どうしたんですか、それ」
健一が不思議がって尋ねた。
「えへへ、凄いだろ。本物のルビーだよ。これね、カアちゃんの形見なのよ。俺のお守りなんだよ。実はね、この指輪には思い出があるんだね。これないしょだよ。恥ずかしいからさ」
人差し指と親指でリングをつまみルビーを目の位置まで静かに持ち上げる。深い、そして純粋に濃い赤の色にまるで魅入ってしまったように、重さんは見つめている。そしてそのままの姿勢でぽつり、ぽつりと語り出した。
「今から20数年前にさあ、カアちゃんに買ってやったんだよ。その当時俺の給料なんてたかが知れててね。貯金も無いし、結婚指輪なんて買えるわけないのよ。でも、俺、カアちゃんに惚れてたからさ、どうしても買ってやりたかったのよ」
重さんが冷や酒を一気にあおった。
「その頃はね、集金も自分でやったのよ。今みたいに銀行振込や小切手なんて少なくて商品収めた翌月に現生自分で取りに行くの。最初はけっこうな金額渡されてびびったりしてたけど、だんだんなれちゃって、2、3日集金日ごまかして給料前しのいだりもしたわけだ。結構のどかな時代というかずさんなところがあってね。ある時、土曜日に地方に集金する用事があったのよ。会社に金納めるのは月曜日ってことでさ、当時で約百万円、新車が買える金、集金してきたんだな。そして家帰ってその金畳の上置いてずっと眺めてた。もう、わかったろ。俺、その百万、日曜の競馬にそっくり突っ込んだんだ。もう絶対の鉄板っていうレース選んで、そう、ただの平場の下級戦だったよ。その下級戦で格が違う馬が1頭出ていてその単賞にすべて賭けた。これ取れれば、カアちゃんと結婚してまっとうに働こうって、神様に祈ったよ。売り場で百万出したとき手が震えて、しょんべんちびりそうだった。それからレースまでが多分10分ぐらいだと思うけど、もう死にそうに長い長い待ちでさあ、とんでもないことしてしまったってその時急に思って、怖くなって.....」
その時のことを思い出したのだろうか。重さんはの顔は真剣だった。
「ゲートが開いたらまともにレース見れないのよ。足がたがた震えちゃって四角曲がって直線、その馬が先頭になってから目つぶっちまった。そのままずっと、祈りつづけたんだよ。神様お願いしますって。だもんでゴールしたあと何が1着で入ったかわからず、恐る恐る聞いたよ、隣の人に。そしたら、その馬が1着だって。もう力抜けてその場にへたり込んで、声出なかった。放心状態でひとりスタンドの地べたに座り込んでたさ。結局、単賞2倍で二百万円の払い戻しだった」
興奮した重さんは一人でしゃべりつづけていた。
「その勝った百万円でこの指輪買って、残りで結婚式やったんだ。今思うと俺の人生で最高の日々だったね。このルビーの指輪つけたカアちゃん、綺麗だったんだよ。ほんと、可愛かった。でも......神様、その時、俺にルビー、くれたけど、あとで、カアちゃん、それに、娘も、俺から、取って....いきやがった。やっぱ、そういうもんなんだよ。飯田さん。人生ってね........」
そこまで言って黙ってしまった重さんの目を見ると、うっすらと涙で潤んでいた。いつのまにか客は健一と重さんだけになっていた。
その年の夏は豪雨と冷夏で、衣料品業界は散々な結果になった。日本は大型不況の幕開けと言われ、消費は冷え込んだ。
一般的には例年どおり、6月末に梅雨が明けて真夏の日差しが照りつけるのを想定して、衣料品業界は夏の品揃えを前もって準備する。だいたいこの時期にカーディガンはこのぐらい売れ、その後、半袖のブラウスはこれぐらい、ノースリーブはこれぐらい必要と予想し、昨年の実績を考慮に入れて小売店や量販店、デパートは品揃えをしていく。その品揃えの為にアパレルは生産するわけであるから、もしも例年どおりに季節が変わらないで売れ行きが極端に落ちた場合、在庫を抱えることになる。今年、梅雨は7月になっても明けず肌寒い日が続き、そのためプロパーで売る時期を逃がしてしまい、ようやく暑くなった時はバーゲンが始まる頃であった。
ここでも買ってやる、買ってもらうの図式どおり、量販店、デパートのバイヤーは前で物が売れてないのを理由に商品の引取りを拒否したり、依託販売で売り場貸ししていた商品を容赦無く返品してくる。
中小アパレルのひとつが量販店のあるバイヤーに、このシーズンに3回転はするという見込みで商品を作らされ、実際蓋を明けてみると1回転しかせず、残りすべての商品の引き取りを拒否されたあげくつぶれてしまった。
健一達も毎日のように、商品を収めている量販店のバイヤーに電話でどなられ、会社まで呼びつけられ、そしてなじられて返品伝票の山を渡された。
「冗談じゃねえよ、売れなくなると悪いのはすべて俺たちだからな。天気のせいだってわかっているくせに、いやみのオンパレードだぜ。いくら大手スーパーの大バイヤーだっていっても、結局看板しょってるだけだろ。それなのにてめえの力で、でかい商いしてると思っていやがる。健一、今日あの馬鹿になんて言われたと思う?お前、本当に大学でてるのか、とか言いやがった。よっぽどてめえよりましな成績で卒業したって言い返そうかと思ったよ」
瀬野が営業から帰ってくるなり、健一に向かってわめき散らした。健一もやはり昨日、百貨店のバイヤーにサマーセーターを顔に向かって投げられ、もう少しで切れそうになった。ここのところ、あまりの売上の落ち込みと今ごろになっての残暑のせいもあり、皆が殺気立っている。
「勘弁してくださいよ、山口さん。これ引き取ってもらわないとさすがに私も会社に帰れないんですよ。もうずっとこのブランドの下げ札とネーム在庫つんでいるんですから」
健一のシマからひとつはさんだ向こうにレディス事業部があり、そこで重さんが山口の前で懇願していた。山口はそっぽを向いてファックスかなにかを書いている。
「しょうがねえだろ、この夏売れるはずのものが売れねえんだから。知ってるとおり、このシーズンでこのブランド終わりだからよ。適当に処分しておいてくれ。まあ、在庫つんでおいしい商売できるときもあんだからさ。あたりまえだろ、なっ」
「そんな後生ですから、今回は引き取ってください。私もねえ、会社に言い訳もう、できないんです。たのんます。その分次回のオーダーでお安くして帳尻あわせますから」
瀬野と目配せして健一は喫煙室に向かう。ちょうどレディス事業部の前にさしかかった時だった。山口がいきなり立ち上って大声でどなった。
「うるせえ、仕事の邪魔だ。あんた、男の癖にぐちゃぐちゃいいやがって。そんなんだから、まともに子供も育てられねえんだよ」
「山口、なんてこと言いやがる」
健一が叫んだ瞬間、目の前にいた小さな重さんがいきなり山口に飛び掛っていた。バランスを崩した山口が椅子とデスクの上のコーヒーカップと共に大きな音をたてながら倒れ、その山口の胸ぐらにしがみついた重さんもいっしょに床に落ちた。瀬野が後ろから重さんを止める。山口が重さんの頭を張った。銀縁の眼鏡が吹っ飛んだ。
健一や瀬野、他の同僚でやっとのこと二人を引き離し、落ち着かせるのにどのぐらいかかったのだろう。
二人がもみ合った後には割れたコーヒーカップのせいであたり一面に破片とコーヒーが飛び散り、銀縁の眼鏡がひしゃげ、レンズにひびが入って転がっている。そして重さんの小銭入れの口が開き中身が散乱していた。健一は咄嗟にルビーの指輪を探す。床の上を注意深く眺めていくと、部長席の脇にあるごみ箱の角に赤く光る小さな指輪が残暑の強い西日を浴びて、ぽつんと落ちていた。
それから重さんはすぐに担当をはずされ、上の人間と謝罪に来て以来会社に来ることは無かった。山口は何も無かったような顔をして相変わらず、電話片手に怒鳴り声をあげている。
1ヶ月ぐらいして重さんから健一に電話があった。大阪の営業所に転勤が決まったので最後に飲みましょうとのことだった。
笹野のカウンターで久しぶりに見た重さんは大分やつれているようだった。
「飯田さん、ほんと、すみません。飯田さんにはずいぶんとよくしてもらったのに、あんなことになっちゃって。だめな男なんです。俺は」
「何言ってるんです。あの時重さんがいかなければ、俺がやつに殴りかかってたかもしれない。やつは言ってはいけない事を言ったんです。俺もほんとうに腹が立つ。あんなの人間の屑ですよ」
重さんは悲しそうな顔をして笑った。ビールを一口飲むと急におどけて
「ごめん、ごめん、また飯田さんをやな気持ちにさせちゃったね。まあ、今日は俺の栄転祝いだと思ってぱっといこう。自分で自分を祝うってのもへんだけどね、はっはっは」
と言いながら健一の肩を叩いた。
ずいぶんと飲んだ。健一も重さんもとことん飲んだ。
「あんたはいい人だ。最後の最後までこんな俺に付き合ってくれて。それだけで俺は嬉しいよ。きっとあんた偉くなる。俺が保証する」
「大丈夫。重さんが保証しなくても俺は偉くなりますって。だけど、重さんみたいに誠実に生きること、それは守りますよ、絶対に」
すると重さんは急にまじめに言った。
「馬鹿、俺は誠実なんかじゃねえ。本当に誠実だったら神様だってカアちゃんや娘を俺からとりあげるはずないじゃないか。違うか、飯田さん。なあ、俺は誠実なんて生きかたじゃなかったんだよ」
思わず健一は答えた。
「わかります、重さん、俺、重さんの気持ち痛いほどわかります」
すると重さんが眼鏡の奥から健一を射るように見つめ、しばらくして搾り出すような声で言った。
「いや、あんたにはわからねえ。わかるはずねえよ」
重さんと健一は店の前で別れることにした。さっきの重さんとは打って変わり、また人懐っこい笑顔をうかべ何度も何度も健一にありがとうと言って握手をした。
いつまでたっても手を離さない重さんの為に、タクシーを止め乗せる。
タクシーを見送る健一に重さんは見えなくなるまでずっと手を振っていた。
健一は煙草に火をつけ、しばらくしてから人形町の駅へ向かう。途中で立ち止まり夜空を見上げ、ふと思った。
あのルビーの指輪は相変わらず、重さんの小銭入れの中に入っているのだろうかと。
風が夏用のスーツには少し寒く感じるほどの、初秋の夜の事であった。
伊藤 哲
1999年6月4日